映画的表現とドラマ的表現のはざま|メゾン・ド・ヒミコ
アンタッチャブル山崎ってモテないねーwww
こんにちは、はるとです。
さて、今日は最近観た「メゾン・ド・ヒミコ」を紹介したいと思います。
■あらすじ
2005年8月27日公開。
卑弥呼(田中泯)はかつてゲイバーのママで、ゲイのための老人ホーム「メゾンドヒミコ」を作る。卑弥呼の娘、沙織(柴咲コウ)は母と自分を捨てた、卑弥呼を良く思っていない。
卑弥呼は末期のガンに侵されていて、卑弥呼の男である、岸本春彦(オダギリジョー)は沙織にある依頼の話を持ちかける。それは、沙織にメゾンドヒミコを手伝って欲しいという話であった。
■感想
映画って観るのしんどくないですか?
だって、2時間ですよ??
昔、小学校の時、授業が50分で結構しんどいなと思ったけれど、それが2時間ですよ??じっと座っているのしんどくないですか?
しかも、今回観たのは「メゾン・ド・ヒミコ」。日本映画ですよ。
この2時間が東映アニメフェアだったり、ハリウッドのアクション映画だったりしたら気楽に見られると思うんですが、日本映画ですよ!!
これ、何でかって言うと、映画的表現が観る気持ちをしんどくさせてると思うんですよね?
例えば、日本の連続ドラマと比べてみると
ドラマ→分かりやすさ・説明的
映画→分かりにくさ・非説明的(解釈の余地)
に分けられると思うんですね。
もちろん、ドラマにも映画にも色々なタイプがあると思うんで、すべての映画がこのように分けられるとは思わないです。ただ、表現を大ざっぱに分類すると上記の形だと思うんですよ。
主人公が喜んでいるシーンがあったとして、
ドラマ→言葉で「嬉しい」と言わせたり・分かりやすい音楽をかけたり
となりがちかと。
ただ、映画の「嬉しい」ってのは、主人公の視線で解釈させたり、微妙な声の変化で解釈させたり、いやそもそも「嬉しい」場面かどうかも受け手によって変わったり。
それが、映画かと。
解釈の余地はあって、観る側の自由度は高いんだけど、ちょっと疲れそうだなー。。。
それが、メゾン・ド・ヒミコを観る前の自分のモチベーション。
と、思ったんだけれど、気楽に見られたのがメゾン・ド・ヒミコでしたねw
これ、何でかなーと思ったら、このメゾン・ド・ヒミコって分かりやすいんですね。
まず、場面場面の登場人物の感情も分かりやすいものを扱っている。
今、この人は「嬉しい」んだなとか「怒っている」んだなとか、非常に分かりやすいです。決して、分かりにくいごちゃごちゃした感情を扱っているわけではないです。父に対して「憎しみ」を抱いているんだなとか、場面場面が分かりやすいです。
また、音楽も映画本編の邪魔にならないくらい、登場人物の心境を伝えてくれるので、非常に分かりやすいです。その邪魔にならなさは、カレーに対して福神漬け!!
福神漬け音楽とでも名付けましょう!!
他には、行動原理に関しても分かりやすいと思います。
難解な日本映画などは、登場人物の行動原理が分かりにくいということもあるかと。「えっ?なんで唐突にこんな行動したの?」って。
その点に関してもメゾン・ド・ヒミコは分かりやすい!!
「登場人物が怒っているから、そんな行動をしたんだな」とかね。
で、かつその「分かりやすさ」が説明的過ぎてないので、表現に押し付けがましさがないのも好感が持てるんです。
いわゆる、ドラマにありがちな「ここ!感動してくださいね!」と言わんばかりの押し付け的、説明的表現とか、ほんとないですね。
で、かつ分かりやすい表現なんだけど、しっかりとした言語に頼り過ぎない映画的表現で楽しく観れるという。ちょうど、映画的表現とドラマ的表現のはざまという感じでしょうか。
ってことで、いわゆる難解な映画表現を求めすぎている人には向いてないかもしれませんが、2時間という時間を感じさせず、非常に楽しく観れましたよ。
「映画メモ」
・柴咲コウがブスっぽいところから冒頭始まって、だんだんキレイになっていくのがスゴイ!
・オダギリジョーってカッコいいな!足長!!